端午の節句(鎧 兜 鯉のぼり 五月人形)

端午の節句を祝うのは、鎧(よろい)、兜(かぶと)、五月人形、こいのぼりです。
最近は室内用の鯉のぼりや、名前旗そして鯉のぼりの吊るし飾りなど、端午の節句アイテムが豊富となりました。


鎧と兜そして五月人形と鯉のぼり、名前旗や室内鯉のぼりの吊るし飾りなども豊富です。

人形工房「アートこうげつ」では、人気の武将の伊達政宗や直江兼続や徳川家康、織田信長、真田幸村、上杉謙信、武田信玄などの鎧や兜、五月人形の新作を展示しました。

アートこうげつでは、鎧と兜そして五月人形と鯉のぼり、名前旗や室内鯉のぼりの吊るし飾りなども豊富です。

上級品をお求めやすい価格で販売しています。
5月の端午の節句である5月5日は強くたくましく、健康に育つようにと祈りをこめて男の子をお祝いする日です。

⇒鎧 兜 五月人形 鯉のぼり 名前旗 鯉のぼりの吊るし飾りの一覧はこちらから

端午の節句に飾る五月人形とは、鎧 兜 鯉のぼりなどの総称です。
もちろん、五月人形そのものも含まれます。
男子の誕生を祝うとともに、無事に成長し、強く、逞しく、
賢い大人になるようにとの願いを込めて、5月5日端午の節句に飾ります。
端午の節句を祝うアイテムは、家の中に飾る「内飾り」と屋外に飾る「外飾り」に大きく分かれます。
内飾りには、主に鎧と兜飾りがあります。
また、子供の人形に鎧を着せた若大将といわれるものや、
外飾りは、鯉のぼり、武者幟で、鯉のぼりは立身出世を祈るためのもので、将来の無事の成長を祈るための内飾りと、
質も意味合いも違うので、できれば両方を飾ることが望ましいとされています。
お子様が逞しく、健やかに育って欲しいという「願い」「想い」を込めて昔から端午の節句には、
男の子の成長をお祝いして「つるし飾り」を飾ります。

端午の節句について、ウィキペディアには下記のように紹介されています。

旧暦では午の月は5月にあたり(十二支を参照のこと)、5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になった。「端」(はし)は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初のの日を意味していたが、「午」と「五」が同じ発音「ウ-」であったことから5月5日に変わった[1]。同じように、奇数の月番号と日番号が重なる3月3日7月7日9月9日も節句になっている(節句の項目を参照のこと)。

宮中では、菖蒲を髪飾りにした人々が武徳殿に集い、天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では、薬玉を作り、お互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については、奈良時代に既にその記述が見られる。

鎌倉時代ごろから、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また、菖蒲の葉の形が剣を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い、健康を祈るようになった。、武者人形や金太郎武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、典型的な祝い方である(ただし「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となったが、京都を含む上方では、当時は見られない風習であった)。鎧兜には、男子の身体を守るという意味合いが込められている。

江戸時代まで、端午の日に子供は河原などで石合戦をする「印地打ち」という風習があったが、負傷者や死亡者が相次いだために禁止となった。また、印地打ちが禁止になった後、菖蒲を刀の代わりにした「菖蒲切り」というチャンバラが流行した[3]

端午の日には柏餅(かしわもち)を食べる風習がある。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。

なお、男の赤ん坊をもつ家庭にとっては初節句となるため、親族総出で盛大に祝われることも多い。特に、家意識が強い地域ではその傾向が顕著である。5月5日が祝日であり、さらに、前後に祝日を伴う大型連休期間中であるため、雛祭り以上に親族総出で祝われる。